からだ総動員の歓声
右手に豆ができた。たぶん小学校の鉄棒以来だ。
軟弱な手だ。日々働いているひとはすごい。
しかし、豆ができたというちっぽけな事実がなんだか嬉しかった。
手の細胞たちが傷ついて、勝手に豆を作って、勝手に癒えていく。そんな事実がなんだか嬉しい。
「草一本人間が作ったものではない」と言った人がいたけれど、手の豆ひとつ自分の意思では作っていない。手を眺めていれば肌理はものすごく細かくて、手がどうやって動いているのかさえもわからず、指なんてこんなすごいもの誰が作ったんだ!と叫びたくなる。足なんてものも勝手に付いていて、これが動かせるんですと。生きているのは心臓というものが勝手に動いているからで、やがてそれが止まれば死ぬのだという。勝手にどこかの調子が悪くなることもあるのだという。ただ私は操縦権だけ与えられただけらしい。
さあ、生きてみろ。と、言われている。
滞在中の農園の娘さんを尊敬している。
7歳の少女は自分より大きなヤギの群れの中に飛び込み、手なずけるでもなく、仲良く友達、といったわけでもないが、どいたどいた、と群れの中に自然に馴染み、子ヤギと張り合いながら、一匹の生き物として動いている。
彼女は群れの中で両手を広げ感情を歌う。
柵によりかかっている自分を一匹のやぎがじっと眺めて、勝手に怖気付いているのはお前だけだ、と言う。
死んだひよこを小屋の隅に見つけた少女は特別に悲しむわけでもないがすくっとそれを拾い上げて両手に包む。It's okay. They keep dying. と見つめながらつぶやく少女。ただ死を包む彼女の強さ。
手の傷は勝手に癒え、草は勝手に育ち、雲は勝手に流れてゆく。手を止めてふと顔をあげれば空は青くて、草は緑で、風は春の匂い。世界の鮮明さに驚き、あぁそういえばここにいた、とからだに気づく。
思わずため息が漏れる。
自然は何も言わずにただ見守っている。若芽はやっぱり喜んでいて、古株は落ち着いているし、動物もいらいらするけれど、何も否定することはなくただ待っている。人は、よくしゃべる。
だがしかしひとに囲まれて込み上げてくるこの思いはなんだ。
この胸に込み上げてくるものはなんなのだ!
すきというかそんけいというかかんしゃというか、ただあたたかいものが湧き出てくる。どんなに考えていたって、ひとりで満足しているつもりだって、この感覚は「何もかも関係ねえ!」とばかりに自分を満たす。時間軸と空間軸が交差したその一点に満たされる。考える喜びをつきぬけて、なにか忘れていたものがよみがえる。
食卓をかこめばこどもは嬉しそうにはしゃぎ、人々は思い思いに手をのばす。
なかまという群れをみつけたそのときに
ぼくはにんげんといういきものとしてからだ総動員の歓声をあげているらしい。