歩く

あるきながらうたおう

遺言

 

  

 

7月22日に帰ります。

まだ先だけど、それまでは農家で働こう。

 

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帰国日は母の誕生日。

 

母の影響はとても大きい

誰が来ても笑顔で受け入れ、食事を出す。中学のときひよこを連れて帰って、これから飼って鶏にすると宣言しても、「かわいいね〜」と受け入れる。反抗期のとき、どれだけ泣かせたことか。

 

 

父に怒られた記憶は一度しかない。母に対して乱暴な言葉を使ったときだった。本はいくらでも与えてくれた。何を考えていたのだろう。親は近いのに遠い。帰れたら話せるといい。

 

人は生きているだけで周りに何かを残しているのだと知った。親の人生というか生きた証が、自分の中にも流れている。

 

地元の友達がとても好きだ。小さな頃からの付き合い。時間を共に積み上げてきたという事実に胸がつまる。情景と共に思い出される感情で、過去が現在に凝縮される。

集まったときには、火を囲むんだ。

 

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あと一月半のアメリカでの生活。

帰ったら皆に会えるのだと言う。

 

 

しかし、

 

 

そろそろ死にそうな気がする。

ぱっ、とこの世界が知覚できなくなるのは悔しい。

 

 

 

 

だから、遺言を書いた。

 

 

 

 

 

パソコンのなかの「遺言」というワードファイル。そのときは誰か、開けて、みんなに伝えて欲しいです。

 

遺言と言っても、相続するものがあるわけではないし、辞世の句を残すわけでもない。結局紙は人の名前で溢れた。

人への想いしか書けなかった。

 

突然死ぬとき、感謝しきれないのが一番の未練なのかもしれない。

感謝の気持ちというか、好きだ!という気持ちというか、なんだか胸がいっぱいになって溢れ出てきそうになるこの感覚は、なんなのだろう。

 

ただ、今は生きているのかというぞくっとした喜びが体を突き抜ける。

 

自殺じゃない。でも、いつ死んでもおかしくはないんだという事実。

死にたくない。この世界をまだ手放したくない。まだ驚いていたい。

 

 

死を意識して、やっと生がはじまる気がするのは、少し残酷な、当然だ。

 

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