歩く

あるきながらうたおう

やっと歩き始めることができそうだ

先日、小学校以来はじめて、そのとき好きだった人のことを好きだと認めることができた。中学校で付き合っていることをからかわれて、それがものすごく嫌だったから、「あんなやつ好きじゃない」なんて言ってしまった。それは自分の心に嘘をついたということで、知らないうちに自分の心を傷つけていた。自分に嘘をつかれた心はより一層臆病になって、それ以来顔を出さないようにしていた。相手に馬鹿にされないように、良い評価がもらえるように、他人の視点に潜り込んでばかりいるうちに、自分の心と繋がるのが難しくなってしまった。好きでもないし、嫌いでもないというものが多くなった。どうなっても良いと思っていれば、傷つかないで済むから。

こんなことをソーシャルな場で言うのに抵抗はあるけれど、やはり好きなものを好きと言えないのは苦しいと思う。対象がなんだって、おなじことだ。

そんな心がようやく修理されたのは、親友にその話をして、親友が謝ってくれて、そんな親友をぶん殴りたくなるような怒りを感じることができたから。謝ってくれて嬉しかったし、受け入れてくれて嬉しかったし、心に怒りを取り戻すことができて嬉しかった。

心って、こんなにもやわで傷つきやすいものだとは知らなかった。

心は、いくつかのニーズを持っている。ニーズって、穴みたいなもので、みんなどうにかして埋めようとする。少しくらいのくぼみでも、穴として気にすると、どうしても埋めたい気持ちになっちゃう。落ち着ける時間をとって、自分のこころ(からだ)が何を求めているのか観察してみると良い。

自分が本当に求めているものの先に、自分というものが花開く可能性があるはずだ。やりたくないことをやりつづけなければいけない社会は絶対におかしい。それは社会がうまくデザインされていないということだ。

たしかに、自分の気がのらないことをやらなければならないときもある。そんなときは、長期目線で自分がやりたいことを思い出すこと。または、それをやることが誰かのニーズを満たしていることを意識すること。それでもやりたくないことは、絶対にやるべきじゃない。自分だけでやめられなかったら、他人の力を借りて、抜け出すべきだ。

何かを人に頼むときは、それが自分のどのようなニーズを満たしてくれるかをきちんと伝えること。自分と他人と向かい合う勇気を持つこと。不完全な自分をさらけだして勝負する勇気がなかったけれど、不完全な自分で打ちのめされながらでないと、本当に前に進むことはできないのだろう。

 

「それってニーズあるの?」という言葉にずっと抵抗があったけれど、ここにきてやっと、この世界は何を求めているんだろう?という問いにたどり着けた。自分ができることで、誰かが必要としていることがあれば、より豊かな世界をつくれるということに気づけた。

 

僕は特別な技能もないし、話したり考えたりすることしかできないけれど、人と話し、行動しながら、何ができるのかを試したいと思う。