Quaking heart
生は震えだ。
淡い存在を胸に抱く。
彼は震えながら吠えている。
震える足で野を踏んでいく。
雨水をのむことを危惧した自分の愚かさよ。
古くなるということの尊さよ。
ぬくもりの外に出ないとわからない輝きもあるということ。
厳しい世界だからこその輝きがあるということ。
時を味わう
時間には味がある。
と思って、ちゃりんこをこぎながら、道行く人の時間の味を想像してみた。
茶髪で軽そうな(何が軽いのだかはよくわからないけれどなんだか軽そうな)大学生。
彼の時間はきっとスカートの味だ。
薄くて軽い、向こう側が透けるような、柄つきのスカート。生地の色は赤系統。絹みたいな軽さと手触りだけど、人工繊維のスカート。口に入れたら一瞬だけやさしい匂いがふわっとする。花みたいな、女の人の香り。生地を舌でこすり合わせればさらさらとした感触が伝わってくる。食べごたえは、あまりない。
たぶん、そんな味だ。
電車の中で見た、指を携帯の上で必死に動かすサラリーマン男性。
彼の時間はきっと携帯電話の味。
金属ではない、ぬるいプラスチックの感触が口いっぱいに広がる。舌でそのなめらかな表面を撫でる。角にがりっと噛み付けば、すこしだけ傷がつく。なかなか噛みきれないからその角を何回も何回も必死にがりがりと噛み続ける。ほんの少しだけかけらがはがれる。
たぶんそんな感じ。
腰を曲げて、手押し車に掴まって、畑から出てくるおばあちゃん。
その時間はたぶん、キャップのつばの根元に汗が滲んだ部分の味。
キャップを口に入れるのにすこし苦労しながら、つばを折り曲げてその部分に舌を伸ばせばすこししょっぱい。布を口に含んで少し吸うと汗と土が混じったような味。しょっぱすぎず苦すぎず、むしろなんだか爽やかさすらある。でもずっと味わってるとやっぱり少ししょっぱいかも。
たぶんそんな味。
この前久しぶりに会った友達。前会った時とはずいぶん変わっていた。
彼女はきっと、琥珀味。
人差し指の爪くらいの大きさの琥珀。角が取れた直方体みたいな形。それをずっとなめていると、味がするようでしない、しないようでする。とけそうでとけない。 大きさの割にずっしりと重みのある味。でもなめらかな味。密に詰まった味。
寡黙になった友達。その寡黙さが経験を語る。
彼はおそらく燃えたいがぐり。
火をのみこむのは勇気がいることだ。しかもその下にはとげを隠しているときた。それを決意をもって口に入れ、なみだをこらえて、きっとまっすぐ前を見る。口の中で火が消えるのをただ耐えて、炭になったとげと殻ををかみしめるんだろう。そのあとにほっくりとした栗の香りと甘みがほのかに漂うのだろう。満足感に浸ったあとに、また次の栗に手を伸ばすのだろう。
強い男。
ぼくは風鈴の味がいい。
青を基調にした柄がついていて、渦巻きもかかれているような風鈴。すこし小ぶりで、そんなに薄くないガラスでできている。口に入れたらひんやりとして、舌がその表面をなめらかに滑る。携帯電話と感触は似ているけど、でももっと軽やかで、通り抜けてしまいそうな食感。短冊が揺れてももう音は響かないけれど、余韻は少し口内に残る。
そんな味。夏限定。
戯れ言ですね。
物語をつなぐ。
アウシュヴィッツ=ビルケナウに行った。
たくさんの人々がここで死んだという話を聞かされる。服を脱がされて髪を剃られて身ぐるみをはがされたのだという話を聞かされる。人々の髪は生地を作るのに使われたのだという。人々の肌には番号が刺青されたのだという。
番号さえもつけられずそのままガス室で殺された者もあるという。ただまとめて殺すために、ある種の人々を殲滅するために、この場所に連れてきたのだという。
屍体を燃やした灰は近くの池に運ばれたという。
目の前にあるこの壁の前で数えきれない人々が銃死刑にされたという。今歩いているこの道を歩いて、人々はガス室へ向かったのだという。暴力と飢餓と懲罰がこの場所のそこらかしこにあったのだという。
想像なんてしきれないけど、ただ体が重くなる。建物を触るとなんだか腕がぴりぴりして、ただ体が重くなっていく。
写真を見ただけで、ざわざわとした気持ちがよみがえってくる。
丸刈りになって同じ服を着て、似たような姿になった人々の個人写真。
一人ひとりの目が、燃えていた。
怒りでもかなしみでもなく、ただ光って、燃えていた。
このすべての人ひとりひとりが、
人種も国も関係なく、
一人の例外なくすべての人がそれぞれの物語をもっているという事実。
そして数100万人単位の人々の物語がここで終わったという事実。
数字にしてしまうと隠れてしまう、ひとりひとりが生きていたという事実。
それを、しっかりと見つめていたい。
過去を知ると、自分が甘いのではないかと思う。
過去でなくたって今だって、自分が経験していないことを経験している人がいると思うと、自分の甘さと弱さを責めたくなる。
すぐに動き出すわけではない自分を責めたくなる。
強く生きている人を見て、自分は全然だめだと思う。
でも自分の物語はきっと自分だけのものじゃない。
これまで生きた人の物語はしっかり伝わっていて、
しっかりバトンは渡されていて、
自分の生きる世界がまさにそのバトンなのだと思う。
自分のなかに、たくさんの人が生きている気がする。
だから、渡されたものはしっかりと受け取っていきたい。
平和をつないでくれたのなら、それをしっかりと受け取っていきたい。
何よりも、つなげていきたい。
自分が世界にいる間に、何を紡いで、何を繋げていくかは、たぶん、自分次第だ。
人を燃やした灰が積もるという池のほとりにはかえるがいて、水面は光っていて、地面はあったかくて、体育座りをした自分の上で木の葉たちがさらさらと揺れている。
何が起こったって時は経って、葉はまた茂る。
これまでに数えきれない命が生まれて死んで、自分の命だってちっぽけなもので、いつか土に帰って、墓には葉が茂って、覚えている人なんていなくなっていくのだろう。
それでも自分が生きて紡いだ物語は誰かにつながって、またその誰かが物語を紡いでつなげていくのだろう。
だからひとりひとりが、どこに住んでいようとなにをしていようとすべての人が、未来に責任があるのだと思う。未来を、創れるのだと思う。
どんな世界をつなげていくかは、選べるのだと思う。
池のほとりに座っていたら、頭上を流れる木擦れと一緒に、重くなった体もなんだか洗われた気がした。なんだか嬉しかった。そこにいれることが嬉しかった。それを自然の中に見たみたいで、なんだか嬉しかった。流れていくもののなかに静かに立っているものを見たみたいで、なんだか嬉しかった。ただ、生きているのが嬉しかった。静かに、その喜びをうたっていきたいと思った。そよかぜが、きもちよかった。
たぶん、歩いていくしかない
葉っぱみたいだ。ひらひらと舞う葉っぱみたいだ。
これは最近の話だけれど、(今はドイツにいるのだけれど)
飛行機に乗っているとき、
地図も持たず、携帯も持たず、ただ知らない土地を歩き続けているとき、
目的地なんてなくて、どこにいるかなんてどうでもいいとき、
自分はただ風に揺られて、運ばれるところに運ばれていく葉っぱみたいだと思う。
水分が抜けて軽くなった、少し黄ばんだ葉っぱみたいだと思う。
ただ地面をからからと転がる枯葉みたいだと思う。
日々の忙しさとか、やらなきゃいけないこととか、あんなことやこんなことをやっているとどんどん時が過ぎてしまう気がする。早すぎる川の流れに放り込まれた葉っぱの船みたいに、もみくちゃにされて、辺りを見回すこともできず流れていってしまう。
街のあちこちでいろんな流れが流れてるみたいだ。みんなそれぞれいろんな流れに乗っているみたいだ。
静かな側流で、辺りをじっくり見渡してみるのが好きだ。静水にぽつんと浮かんでいるのも好きだ。自分と話したりする時間が好きだ。
でもたぶんそれはそうしないと自分の流れを保ってられないからなんだ。すぐ流されてしまう弱さでもあるんだ。
強い流れに押し流されないくらいに、流れの中を立っていられるくらいに
強くなりたい。
旅とは人に出会うことだと思う。
違う場所に行けば違う人がいて、いろんな人がいて、
でも実は身近な場所にもいろんな人がいて、
一人の中にもまだ見ていない部分があって、
自分の中にも見ていない部分があって、
だからきっと旅はどこでもできる。
一つの行為も旅になりうる。
日常を、旅にできる。
世界にはたくさんの人がいて、
これまでにも人はたくさんいて、
みんな物語を持っていて、
すごい人がたくさんいて、
そんなことできないって不安になったりして、
自分の弱さに、自分の小ささに直面してしまう。
全然だめだ、って呟いて倒れこみたくなる。
しかし朝起きるとひんやりとした空気が漂っていて、
日差しが草たちを照らしていて、
川に行けば水面に光が踊っていて、
綺麗で、
目が離せなくなって、
泣きそうになる。
頭上では、緑色の光と葉の揺れる音が流れている。
橋の鉄骨に寝っ転がって、空を見上げれば飛行機も鳥も同じ大きさで飛んでいく。
風が吹くと、目を閉じていても爪先まで感じられる。
胸が溢れそうになって、 すべて関係無くなって、その一瞬を生きられる。
小さいとか弱いとか、それはまぁそうなんだけど、
全部ひっくるめたまんまるとした自分で、ただしっかりと地面を踏んで一歩ずつ歩いていきたいって思える。
まだ、生きている
火を眺めていたり、海を眺めていたり、ぶたを眺めていたりするとゆうに2時間は過ぎる。
農園での作業を終えて、長靴を履いたまま、手は土だらけのまま、自転車にまたがる。小さなラジオのダイヤルを回して曲を探す。
木にかこまれた坂を両手放しで下って、牧場を眺めながら少しこぐ。木が途切れ、水面が光って海の匂いが漂う。
砂の上に自転車を横たえて、流木に腰掛ける。
水面に反射する太陽の中を鷺が歩く。
次の日は木の向こうに沈む太陽を眺めながら火をおこす。
ふと振り返れば向こう側の木々が夕日に照らされて輝く。
火は踊り続ける。
次の日は餌の入った樽の上に腰掛けて柵の外からぶたを眺める。
ぶたは水浴びが好きだ。泥のなかに飛び込んで、泥まみれで寝転んでしっぽを振る。
食べるのも好きだ。溢れた餌のなかに寝転んで、口だけ動かしながら食べ続ける。
空腹な時は少し怖くて、生身の人間なんて弱いものだと知る。
ぶたの尻は引き締まっていて、たるんでなんかいない。
幸せな時、しっぽを振る。
そしてその幸せそうなぶたを我々は一ヶ月後に殺す。
生きているものを殺して、土から植物を掘り出して食べているという何度も確認したはずの事実を再確認して衝撃を受けるという衝撃。
ペットショップにおもちゃのように積まれた豚の耳も、子ヤギも、走っていたのだ。
農園で時間を過ごせば過ごすほど人間も動物も植物も根っこはおんなじなんだと思う。体を動かして、土に触って太陽を浴びて、青空を見上げると無性に嬉しい。
広々としたところで過ごすぶたは幸せそうで、
小さなケースから畑に移すときのレタスの芽は手を通じてその喜びを伝えてくる。
水と太陽をしっかりと浴びた野菜はやっぱりハッピーだ。
ある実験室のような部屋に入った時の感覚が忘れられない。密集していて太陽を浴びず、土に触れないで育てられた植物。空気にぞっとしたのを思い出す。
人間も多分同じではないか。
いろんな形の幸せはあるとしても、生きているものとしての一番基本的な幸せはおんなじではないか。
そこが失われてはいけないのではないか。
とにかく私は生きていることが嬉しい。夕焼けに光る草と蜘蛛の巣を眺めていられることが最高に嬉しい。夕日の沈む海を見ながら、打ち寄せる波の音を聞きながら、洗っても落ちないほどに土が染み込んだ手で字を紡げることがとても嬉しい。
水が光でうねっていて、浜辺の石も光っていて、海の匂いが漂っていて、砂浜の小さな山々が影と光を作っていて、ふと振り返れば自分の影がそこに伸びているのが本当に嬉しい。頭を抱えたくなるほどに、うち痺れるほどに、これは夢ではないかと思うほどに、この身体が愛おしくて、嬉しい。
人生は川みたいだと思う。どこに行こうが何をしようがみんな最後は大きな海にたどり着く。みんな混ざる。それぞれの川が運ぶ土が、物語が、海に蓄積される。その水を元にまた川が生まれる。
川と川が出会って、ただ一度交差するだけの時もあればしばらく一緒に走る時もある。一つの大きな川になる時もある。
一度触れればお互いの水は少し混ざる。
別れた後も、その川の水が自分の中で渦巻いている。
いろんな物語が、自分の中で渦巻いている。
人生は別れの連続かもしれない。
穴も開いて、傷もつくのかもしれない。
それをこの身体に刻みつけていきたい。この時間というものと出会いというものを刻みつけて、海にたくさんの物語を連れて帰りたい。
削られてつるつるな丸い石よりも、私はぼろぼろで傷付いた流木になりたい。
その姿で堂々と横たわるような、欲張るならば少し優しげな流木になりたい。
からだ総動員の歓声
右手に豆ができた。たぶん小学校の鉄棒以来だ。
軟弱な手だ。日々働いているひとはすごい。
しかし、豆ができたというちっぽけな事実がなんだか嬉しかった。
手の細胞たちが傷ついて、勝手に豆を作って、勝手に癒えていく。そんな事実がなんだか嬉しい。
「草一本人間が作ったものではない」と言った人がいたけれど、手の豆ひとつ自分の意思では作っていない。手を眺めていれば肌理はものすごく細かくて、手がどうやって動いているのかさえもわからず、指なんてこんなすごいもの誰が作ったんだ!と叫びたくなる。足なんてものも勝手に付いていて、これが動かせるんですと。生きているのは心臓というものが勝手に動いているからで、やがてそれが止まれば死ぬのだという。勝手にどこかの調子が悪くなることもあるのだという。ただ私は操縦権だけ与えられただけらしい。
さあ、生きてみろ。と、言われている。
滞在中の農園の娘さんを尊敬している。
7歳の少女は自分より大きなヤギの群れの中に飛び込み、手なずけるでもなく、仲良く友達、といったわけでもないが、どいたどいた、と群れの中に自然に馴染み、子ヤギと張り合いながら、一匹の生き物として動いている。
彼女は群れの中で両手を広げ感情を歌う。
柵によりかかっている自分を一匹のやぎがじっと眺めて、勝手に怖気付いているのはお前だけだ、と言う。
死んだひよこを小屋の隅に見つけた少女は特別に悲しむわけでもないがすくっとそれを拾い上げて両手に包む。It's okay. They keep dying. と見つめながらつぶやく少女。ただ死を包む彼女の強さ。
手の傷は勝手に癒え、草は勝手に育ち、雲は勝手に流れてゆく。手を止めてふと顔をあげれば空は青くて、草は緑で、風は春の匂い。世界の鮮明さに驚き、あぁそういえばここにいた、とからだに気づく。
思わずため息が漏れる。
自然は何も言わずにただ見守っている。若芽はやっぱり喜んでいて、古株は落ち着いているし、動物もいらいらするけれど、何も否定することはなくただ待っている。人は、よくしゃべる。
だがしかしひとに囲まれて込み上げてくるこの思いはなんだ。
この胸に込み上げてくるものはなんなのだ!
すきというかそんけいというかかんしゃというか、ただあたたかいものが湧き出てくる。どんなに考えていたって、ひとりで満足しているつもりだって、この感覚は「何もかも関係ねえ!」とばかりに自分を満たす。時間軸と空間軸が交差したその一点に満たされる。考える喜びをつきぬけて、なにか忘れていたものがよみがえる。
食卓をかこめばこどもは嬉しそうにはしゃぎ、人々は思い思いに手をのばす。
なかまという群れをみつけたそのときに
ぼくはにんげんといういきものとしてからだ総動員の歓声をあげているらしい。
遺言
7月22日に帰ります。
まだ先だけど、それまでは農家で働こう。
帰国日は母の誕生日。
母の影響はとても大きい。
誰が来ても笑顔で受け入れ、食事を出す。中学のときひよこを連れて帰って、これから飼って鶏にすると宣言しても、「かわいいね〜」と受け入れる。反抗期のとき、どれだけ泣かせたことか。
父に怒られた記憶は一度しかない。母に対して乱暴な言葉を使ったときだった。本はいくらでも与えてくれた。何を考えていたのだろう。親は近いのに遠い。帰れたら話せるといい。
人は生きているだけで周りに何かを残しているのだと知った。親の人生というか生きた証が、自分の中にも流れている。
地元の友達がとても好きだ。小さな頃からの付き合い。時間を共に積み上げてきたという事実に胸がつまる。情景と共に思い出される感情で、過去が現在に凝縮される。
集まったときには、火を囲むんだ。
あと一月半のアメリカでの生活。
帰ったら皆に会えるのだと言う。
しかし、
そろそろ死にそうな気がする。
ぱっ、とこの世界が知覚できなくなるのは悔しい。
だから、遺言を書いた。
パソコンのなかの「遺言」というワードファイル。そのときは誰か、開けて、みんなに伝えて欲しいです。
遺言と言っても、相続するものがあるわけではないし、辞世の句を残すわけでもない。結局紙は人の名前で溢れた。
人への想いしか書けなかった。
突然死ぬとき、感謝しきれないのが一番の未練なのかもしれない。
感謝の気持ちというか、好きだ!という気持ちというか、なんだか胸がいっぱいになって溢れ出てきそうになるこの感覚は、なんなのだろう。
ただ、今は生きているのかというぞくっとした喜びが体を突き抜ける。
自殺じゃない。でも、いつ死んでもおかしくはないんだという事実。
死にたくない。この世界をまだ手放したくない。まだ驚いていたい。
死を意識して、やっと生がはじまる気がするのは、少し残酷な、当然だ。