歩く

あるきながらうたおう

全休符

また、歳を重ねることができたので久しぶりに文章を書いてみようと思います。

 

24歳。私がこの世に生まれ落ちてから、地球が太陽の周りを24回回ったということになっています。この数は、地球の歴史と比べて、あまりにも少ない。4600000000回、すでに地球は太陽の周りを回っている。そのうち、24回まわっただけ。人類は3700000年前に誕生したと言われています。それから、なんと色の濃い時間を重ねてきたことか。人類が生まれてから現在に至るまで、生きるために獲得してきた能力が自分の体に宿っている。そして、私の周りに見えるあらゆる景色に、人類の爪痕が刻み込まれている。

 

いや、しかしそれは思い込みが行きすぎているのかもしれない。それぞれの生命が、独立して、しかし相互に影響を与えながら、形作られてきている。そこが、生命の面白いところだ。予測不可能で、毒々しく、気持ち悪く、うごめく。

 

この一回生が愛おしい。あの草の中で、あの子の中で、自分の中で、うごめいている得体の知れない何か。そのうごめきに魅せられている。複雑で、コントロールできない何か。それは恐怖とひとまじり。一体になっている時しか、受け入れることができない。これだ。体が溶けていくような感覚。胸がちぢこまる。いのちがぜんぶ。ころし、ころされる。

 

ころしてもいいよという信頼。たべてね。

謎のシャワー

過去に撮られた写真を見ていた。

いつ撮ったのか、どこで撮ったのかという記憶はほとんど残っていなかった。

まったくの、すこしつながっている別人が撮ったかのような写真であった。
その時交際していた人の記憶がよみがえる。

あぁなんでおれはいまここにいるんだろう。

理由がない。

なんでこのひとといるんだろう。

謎だ。

湯船からからだを出して、シャワーを浴びた。

謎だ。水が謎だ。

理由がない。理由がない。

やっと歩き始めることができそうだ

先日、小学校以来はじめて、そのとき好きだった人のことを好きだと認めることができた。中学校で付き合っていることをからかわれて、それがものすごく嫌だったから、「あんなやつ好きじゃない」なんて言ってしまった。それは自分の心に嘘をついたということで、知らないうちに自分の心を傷つけていた。自分に嘘をつかれた心はより一層臆病になって、それ以来顔を出さないようにしていた。相手に馬鹿にされないように、良い評価がもらえるように、他人の視点に潜り込んでばかりいるうちに、自分の心と繋がるのが難しくなってしまった。好きでもないし、嫌いでもないというものが多くなった。どうなっても良いと思っていれば、傷つかないで済むから。

こんなことをソーシャルな場で言うのに抵抗はあるけれど、やはり好きなものを好きと言えないのは苦しいと思う。対象がなんだって、おなじことだ。

そんな心がようやく修理されたのは、親友にその話をして、親友が謝ってくれて、そんな親友をぶん殴りたくなるような怒りを感じることができたから。謝ってくれて嬉しかったし、受け入れてくれて嬉しかったし、心に怒りを取り戻すことができて嬉しかった。

心って、こんなにもやわで傷つきやすいものだとは知らなかった。

心は、いくつかのニーズを持っている。ニーズって、穴みたいなもので、みんなどうにかして埋めようとする。少しくらいのくぼみでも、穴として気にすると、どうしても埋めたい気持ちになっちゃう。落ち着ける時間をとって、自分のこころ(からだ)が何を求めているのか観察してみると良い。

自分が本当に求めているものの先に、自分というものが花開く可能性があるはずだ。やりたくないことをやりつづけなければいけない社会は絶対におかしい。それは社会がうまくデザインされていないということだ。

たしかに、自分の気がのらないことをやらなければならないときもある。そんなときは、長期目線で自分がやりたいことを思い出すこと。または、それをやることが誰かのニーズを満たしていることを意識すること。それでもやりたくないことは、絶対にやるべきじゃない。自分だけでやめられなかったら、他人の力を借りて、抜け出すべきだ。

何かを人に頼むときは、それが自分のどのようなニーズを満たしてくれるかをきちんと伝えること。自分と他人と向かい合う勇気を持つこと。不完全な自分をさらけだして勝負する勇気がなかったけれど、不完全な自分で打ちのめされながらでないと、本当に前に進むことはできないのだろう。

 

「それってニーズあるの?」という言葉にずっと抵抗があったけれど、ここにきてやっと、この世界は何を求めているんだろう?という問いにたどり着けた。自分ができることで、誰かが必要としていることがあれば、より豊かな世界をつくれるということに気づけた。

 

僕は特別な技能もないし、話したり考えたりすることしかできないけれど、人と話し、行動しながら、何ができるのかを試したいと思う。

無題

別れのさっぱり感が好きだ。

 

じゃあな、とさっぱりと別れてまた一人になって一歩を踏み出す感じが好きだ。

 

初めて会った人と短時間を過ごして話をして気持ちよくなるのは簡単だ。

 

長い時間をすごすといらいらすることもある。

 

もう会えない人とはどうすればいいのだ。

 

ただ与えられる時どうすればいいのだ。

何も求めようとせず与えられた時どうすればいいのだ。

感謝しても感謝しきれないという時どうすればいいのだ。

たぶんそのどうしようもない思いを胸に抱えながら精一杯生きるしかない。

 

手に土が染み込んだ。

 

しかしそんなことを言ったところで本当に精一杯生きているのか。彼がその質問を投げ続けてくる。

 

 

これまで出会った人の物語で自分の物語が構成されている。物語を紡いでいけるなんて。なんてことよ。 

 

結局生き物なのだ。青空が嬉しいのだ。

森の中を指す道標

何が舌を喜ばすのだろう。何が耳を喜ばすのだろう。

美味しいものを食べた時、心地よい音を聴いた時、立ち向かう勇気のなかったものに立ち向かう気力が湧いてくる。

向かうべき場所を忘れてしまった時の心許なさ。忘れてしまっていることにすら気づいていない時の困惑。自信喪失。生の実感の喪失。どんどんと物事が迫ってきて、自分を撫でてとおりすぎていく。捕まえ方を、忘れてしまっている。

何が私を喜ばすのだろう。つまるところ、私は何をみたいのだろう。

生とはなんだろう。生まれて死んでいく。死ぬ時には何も残っていない。けれど残っている。行為の幽霊。世界という虚構。意識という虚構。

幸せということ。生そのもの。それは驚き。存在というもの。

めがね

どんと突かれた時に眼鏡がずれて、視界の端に縁が見えて初めて眼鏡をしていることに気づく。

視界の端に一瞬だけ映ったレンズを通さない景色。なんだこれ、と思いつつ、あっと言うことができないままに、すぐまた眼鏡はもどってくる。

一瞬見た世界が忘れられなくて、あれはなんだったんだろう。

 

いつも僕と世界の間に挟まっているもの。それがぽろりとはずれたときのあの感度。

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体と世界とぼくときみ

 

部屋に横たわってたまにギターの弦を弾く。

少ししてからふと音がなっていることに気づく。

そんなようにして、あるということに気づく。

いつかわかるかと思ってたけどこりゃ一生わかんないのかもしれないな。

あぁ、意識を持った原子になりたい。

 

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